教育機会確保法案 3.23緊急院内集会
法律が子どもと教育にあたえる影響
もっと聞こうよ当事者の声

イベント報告②金井利之編

 

院内集会イベント報告①池田賢市編はこちら
院内集会イベント報告③桜井智恵子編はこちら

 



院内集会の金井利之さんの講演をまとめたものです。

「立法ハイ」金井利之さん

■残念な内容である
 以前にも「STOP! 多様な教育機会確保法案」の集会に呼ばれて、教育の専門家でもない第三者として法案素案のとりまとめについて、「あまりいい内容ではないなあ」と思いながら読んで、お話したことがあります。

 要は当事者とか進めている人たちが期待していることが、残念ながら実現しない中身になっているのが一番の不幸です。いいものをつくろうとして悪いものができるというのは、本当に残念なことです。そういった意味で心配というより残念な取りまとめだなあというのは前回考えたところです。

 そのあと、みんながこれはちょっと残念だからやめた方がいいんじゃないの? と言っていたら内容が変わって、少し良くなったのかなあと思って見たら、ますます残念な内容なんですね。二重に残念である、という状態になっています。

■マイナスのものはつくらない方がいい
 不登校の問題とか学校の問題とか、いろいろ深刻な問題があるというのはみんな比較的一致していると思うのですが、そういう課題を解決するという目的にとって、これはむしろマイナスに作用するものになってしまう。マイナスのものをつくるくらいだったらゼロのほうがまだいいということですね。

 だからと言って、何もしなければ解決すると言っている訳では全然ないので、「おまえには対案がないのか」とよく言う人が良く居ますね。たしかに、プラスの対案が出来たらいいなとみんな思っている。でも、マイナスの対案だけはつくらない方がいいんじゃないのというのが率直な気持ちです。
 この座長案がマイナスの案である要点は、以下の五つです。

■この座長案ではお金はでない
 一つ目は、前からよくあるのが「フリースクールにはお金がかかる」という議論があり、法律を作ればお金が行政から出る、というのがあります。不登校の子どもの数のなかの比率から言ったら、フリースクールに通う子どもの数はわずかだから、全体の解決にならないというのはその通りだけど、それでも本当にフリースクールにお金が出て、3・5%の人にとってプラスになるんだったらそんなに悪いことではないなと思う。

 お金が出たらいいなという声はいろんなところで聞きますし、私も全くその通りだと思います。問題はこの座長試案でお金が出るのかというと、結論的に言うと出ないということです。何故ならば簡単で与党は国会の多数を持っているのですから、予算をつけたければ、さっさとつければよいということです。

■待ったなしなら、議論なんかしてないで予算を増やせばいい
 こんな超党派で議論なんかしていないで、さっさと政府与党が2016年度予算案に入れればいいだけの話だし、あるいは超党派がそんなに大事だと思うのだったら、国会で超党派で予算の増額修正をすればよい話であって、お金がそんなに大事ならばさっさと予算を変えればいい。

 予算審議を国会でしているわけですから。通常国会で一番大事な仕事は予算審議です。予算をさっさと増やせばいい。予算を増やす気がないのになんで、こんな座長案を議論しているのかというのが、率直に言ってよくわからない。一部のホームページを見ると「待ったなし」などと書いてあるんですけど、待ったなしだったらさっさと予算を付ければいいじゃないか。なんで予算付けないんだろうかと言う気がするんです。

■法律ができたから予算がつくなんて甘い話はない
 こういう話をすると、「法律がないから予算が付かないんだ」という言い方をする人がいます。しかし、法律ができたら予算が付くなんてそんな甘い話はない、ハッキリ言って、法律をつくって予算を付けたいんだったら、法律で「必要な給付を行うものとする」(国民年金法第2条など)とか書かなければいけない。「その者に支給する」(国民年金法第26条など)という義務付けをしないといけない。義務もないのに財政上の措置をするとか附則に支援を検討するとか努力するとか書いてあるのは、これは霞が関用語でいうと「やらない」という意味なんです。予算を付けないと言っている座長案である。

 私は率直に言うと予算は付いた方がいいなと思う。今は法律が無いから、予算を付けるともつけないとも言ってない。ただ、与党が決断すれば、法律がなくても予算は付けられる。けれども、今回の座長試案はわざわざ付けないと書くんですね。なんでわざわざ付けないと書く座長案をまとめるのか。これはゼロではなくてマイナスである。予算は現状でもゼロだから問題ですけれども、座長案に予算を付けないとわざわざ書くのだからマイナスの作業であるということですね。

■本当に予算をつけたいのであれば
 ちなみに本当に予算を付けたいのであれば、政府は予算関連法案というかたちで政府提出法案として出すというのが大前提。これは通常国会に出る場合には、これは議員の秘書の方のほうがお詳しいと思いますが、いわゆるA法案というものです。ちゃんと予算作って予算関連だから優先して処理するというものなどを、ちゃんと財務省も含めて話をつけてから、そして初めて予算の議論ができるのです。

 今回の試案、残念ながらこの取りまとめでは、予算を付けないという法律をわざわざ議員立法でつくっちゃうということです。少なくとも財政支援を求める立場からいうのならば、この座長案はマイナスに作用する。本当にこれで大丈夫なのか? お金欲しかったんじゃないの? というのが私の率直な気持ちですが、推進派の人たちは、どうもお金要らないと言ってるらしいのです。これは止めた方がいいんじゃないの? というのが一つ目の残念なところですね。

■本来の目的に立ち返ってほしい
 二つ目の残念なところは、議員さんと民間の方が法案をまとめようと一生懸命努力していて、そのうち子どもたちのために法案をつくろうとしていたのか、それとも法律をつくること自体が目的なのか、何だかよくわかんなくなっちゃっているように、第三者の目からは見えます。立法宣言をしてから1年が経ったからつくらなきゃいけないとか、もうここまで来たら今しかつくれないとか、言う意見は聞きますが、いったい何がしたいのかがよく分からない。

 当事者不在、子ども不在の取りまとめになっている。つくっている関係者が今までやって来たことが無駄だったというのは残念だから取りあえず形にしたいというような自己目的化してしまっている。本来の目的に立ち返って、誰のために何をつくるのかをしっかり取らえ直してほしいなと思っています。

■不登校は問題であるという意識の壁
 三点目は、「学校教育しかないというそういう制度の壁を破りたい、風穴を開けたい」、こういう議論がある。今の学校でいろいろ問題があるというのは多くの人が感じているところなんですが、そうしたものの背景にある意識の方が重要な問題です。学校に行っていない子どもには何か問題があるのではないか、という社会の意識の壁の方がより深刻ではないかと思っています。学校での人間関係や社会など、様々な歪みの帰結として不登校という現象が現れているという発想が、基本的に欠けている。

 今回の座長案が問題なのは、その意識の壁を突き破ることに失敗したので、超党派の人に納得してもらうために意識の壁を前提にしての取りまとめになってしまっている。つまり最初から壁を破る戦いに負けている。最初から意識の壁を前提にして、制度の壁を破るなどと称して、新しい学校をつくるとか、フリースクール教育施設を認めるとかいってるわけですが、意識の壁を破らないで制度の壁を破ると、実は非常に逆に作用する。だからマイナスの法案なのです。

■新たな制度の壁をつくることになる
 不登校になっている子どもは問題なんだ、という今ある意識の壁を変えないまま制度だけ変えると、不登校だから特別編成学校に行きましたとか、フリースクールに行きましたとか、自宅で学習していますということが、制度的に“ダメな子ども”となってしまう。二級校(=特別編成学校)・三級校(=フリースクール)・四級校(=自宅)という学校カーストをわざわざ公式に作る。そういう意識を制度によって正当化することになる。壁を破るどころか壁を強化する。

 今はそういう制度がありませんので、我われの心の中だけに壁がある。そのような心の壁を持った一部の国会議員に妥協して超党派でまとめると、意識の壁を変えないまま、制度だけ変えるということになると、できた制度がまさに意識の壁を反映した制度になっている。これは結構深刻なことです。フリースクールに行っている子どもにもよくないし、フリースクールに行ってない不登校の子どもにもよくないし、学校に通っている子どもにもよくない。

■誰が不登校と認めるのか
 四つ目の問題は、分類してやるというこの発想。心の壁があったのを、制度の壁にして、明確にあなたは不登校生徒児童だと、「認められる」と書いてあるんですね。座長試案には誰が認めるのか書いていないという極めて無責任な法案。認められるって、誰が認めるんですかということです。他人からお前は不登校児童生徒だと勝手に烙印を押される。

 これは非常に失礼な、まさにdecency(ディーセンシー、礼節)に欠く定義だと言わざるを得ない。要は一人ひとりの人間としての配慮を欠いている。進めている人たちは、非常に子どもたちのことを考えているはずなのに、そのはずの人たちが、何故このように失礼なことをしてしまうのか。非常に不思議な取りまとめになっています。

■学校に行っている子どもへの配慮がない
 今回、学校に長期間行かなくなっている子どもと、学校に毎日行っている子どもと分けていますが、みんなが楽しんで毎日行っているわけじゃなくて境界線上でどうしようかと悩んだり、嫌だけどしょうがないから行っているとか、いろんな中間状態で苦しんでいる子どもはむしろ多数だと言った方がいいですね。登校と不登校は、あくまで連続線上です。

 いわば不登校の人だけではなくて、学校に行っている多数の子どもたちに対する配慮が全くない。不登校にならないのがいいという意味ではなくて、ギリギリで学校に行くことを選択している子どもたち、あるいは不登校にならないけれども自殺しちゃうということだってあるわけですね。もっと深刻です。

 国の統計でみますと夏休み明けに自殺が増える、これは恐ろしい事態です。で、いつ自殺が減るかというと、夏休みとゴールデンウィークとお正月。休みが明けると自殺が増える訳です。どう見ても学校が自殺と非常に大きな相関関係があると言わざるを得ない。ということは、不登校を議論している以前にもっと深刻な問題があるんじゃないか。まず、生き延びることです。そこら辺を考えないで、長期間日数を休んでいる人だけ不登校と勝手に認める、不登校と認定した子どもたちだけに対処すればいいという話は全く本末転倒だというふうに思います。しかも、折角、不登校で何とか生き延びている子どもに、「小さな支援、大きな迷惑」の手を出して、さらに生きにくくする。

■普通教育はユニバーサル
 結局どういうことかというと、これは五番目の話になるのですが、普通教育というのはユニバーサルなものでなければならない。全員にとって受けられるサービスでなければならない。よくユニバーサルデザインという言い方をしますね。障碍者の人だけを何とか動けるようにすればいいんじゃなくて、みんなが使いやすいものをつくるのが大事なんじゃないですか? 

 これは建築や土木の領域では常識になったわけです。なんで学校はユニバーサルにしないのか。ユニバーサルじゃなくて来れない人は別処遇すればいい。そもそも、学校は昔、障碍者の人は来なくていいと言っていたわけですね。それが来ていいということになったら、いつの間にか特別支援学級になってしまって、また分かれた。全然、ユニバーサルデザインという発想がありません。

 ユニバーサルとは、全員来るべきだというわけではない。来たいと思ったら心置きなく来られるようにしましょう、もっと言えば、心置きなく来たいと思えるようにしましょうという、実効的な措置の話です。それをやらないで、来なくていいですよと、別につくりますからというのは、普通教育というユニバーサルサービスとしての学校教育に対して、発想があまりに貧しいと思います。

■立法ハイ
 あまりに残念な中身なので、なんで、子どものことを考える良心的な人々が、こんなものをつくろうとしているのか率直に言ってよく分からない。よく分からないからきっと自己目的化しているんだろう、と仮説を立てています。何でもいいからつくればいいんだろうと思っているのかもしれない。

 これは一種のランナーズハイならぬ「立法ハイ」ですね。立法作業をしはじめたらアドレナリンが出てきて、なんでもいいからつくればいい、国会も最後は乱闘してもいいから法案を通せばいい。このようなランナーズハイ、クライマーズハイ状態で、立法ハイになっている。立法ハイチームになっているのは残念なことで、もう少し冷静に、誰のために何をするのかという議論を国会議員の方はしっかり考えていただきたいと思います。


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