教育機会確保法案 3.23緊急院内集会
法律が子どもと教育にあたえる影響
もっと聞こうよ当事者の声

イベント報告③桜井智恵子編

 

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「救済ではなく差別の法律」桜井智恵子さん

 

  この法案の問題は不登校の話で留まらず、そうとう世の中を劣化させるでしょう。とても心配しています。

今日みなさんにお話しするために、池田さん、金井さんと3人で、4つの大きな問題点を整理しました。

 「意識の壁」と金井さんは仰っていました。法律は、法律独自で成立するものではなく、その時代の思想にかたちづくられて成立します。ですから法哲学や法思想という分野があります。私たちがいま置かれている状況のなかでは、意識の壁がベースになって学校が理解されている。そのベースの上にできあがるため、そうとう差別的な法律になります。

■法律がもたらす構造的暴力

 私は、5月にブリュッセルに行く予定でしたが、昨日、ブリュッセルの国際空港と地下鉄でテロがあったため中止になりました。そもそもテロと呼ぶのもどうかなと思います。テロを起こす状況を国際社会がつくっているということは、みなさんご存知だと思います。国際社会のなかで構造的暴力が生み出され、イスラムの人が不安にさせられているわけです。

 構造的暴力というのは、平和学者のヨハン・ガルトゥングが提唱した概念です。「あなたの地域が、あなたの国が、人を差別して排除するから戦争が起きる」ということをガルトゥングは明らかにしています。

 また、先日、イギリスで保育士をしているブレイディみかこさんと対談をしました。イギリスでは、もし一言でも課題のある子どもを分離するような発言をしたら、保育士失格だと言っていました。職場では、年に3回もインクルージョン(包括的教育)についてレポートを書かされるというんですね。それぐらいイギリスにとっては多種多様な人々が生きあえるかどうかが最重要テーマ。それが国や地域を滅ぼすか滅ぼさないかを決める。ですから保育士のなかで、「この子はちょっとね・・・」という言葉を使ったら、もうプロとして失格。「日本は何をしてるの? こんな状況になっているのに誰も怒らないの?」と彼女は言うのです。

別学体制より共に学ぶ機会を

 1番目の問題は「多様性を奪う別学体制」です。

 

別学体制という言葉は1979年の養護学校義務化の時の批判として用いられた言葉です。障害のある子どもたちを別学で育てるということに対して、大きな批判が市民運動のなかで起こりました。しかし、結果としては別学体制になり、その後、マイノリティーは決してマジョリティーのところに戻れない道がつくられてしまった。教育学の中ではほんとうに反省の多い教育戦後史です。

 その言葉をあえて今日は用いています。「特別な課程をつくる」と第十条にあります。最初のころにはなかった条文案が、今年になって入ってしまった。

 私は、兵庫県川西市子どもの人権オンブズパーソンとして6年、滋賀県大津市で2年、個別救済の現場で不登校の子どもたちとたくさん出会ってきました。先生たちは、休んでいる子どもたちによかれと思ってプリントを用意する。「とにかく、学力保障だ」と仰るのですが、まずは命なんです。

 特別な課程をつくることが、子どもを排除することになる。法律を見ただけではそう見えなくても、現場に降りていったらもれなくそうなっていく。経験的に明らかなことです。

 別学よりも共に学ぶ機会を確保しないと日本が危ないということになると思います。

 そもそも多様性という言葉は多様化とは違います。多様性というのは多種雑多な人たちが一緒に在るという意味です。多様な学びの法案ということで混同している。多様性ということに対する認識不足です。

 多様化することで逆に子どもたちは分類分断され、多種多様雑多な人たちが生き合うという経験そのものが縮減される。

 教育ではじめて多様化がテーマになったのは、1984年から88年にかけて行われた臨時教育審議会でした。この多様化がその後厳しく批判されたのは、財界にとっての多様化、資本の側から見た多様化だったからです。残念ながら今回も同じような流れになります。

不登校の子が学校以外の学ぶ場へ行ったら、ほっとする?

 昨年12月21日に中央教育審議会の答申が3つ出ました。
 1つが「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について」。近年グローバル化や情報化が急速に進展し、社会が大きく変化し続けるなかで複雑化・混合化した課題に的確に対応するためにと、10以上の専門家を学校の中に投入するという答申です。その中に新しい専門家がいます。たぶん不登校対応と思われる「補習など学校における教育を充実させるためのサポートスタッフ」です。グローバル化を目指すのに困難な課題があるから、サポートを投入してなんとかしのいでくというふうに読めます。

 先日、何人かの教職員にインタビュ―をしました。「ここだけの話だけれど、この法案ができたらほっとするね」と先生たちは言うんですね。「自分が担任をしている厳しい状況にある不登校の子どもたちを全部よそへ丸投げすることができるから、自分はもう家庭訪問だとか、その子のケアをすることから解放される」と。以前、発達障害の子どもに関わる人が、「特別支援学級ができたとたん担任の先生たちは手を放す。特別支援の子どもたちの責任が自分にはなくなったから、ちっとも話を聞いてくれなくなるんだ」と言っていたことと、そっくり重なるなと思って話を聞きました。

責任を不登校の子どもにおしつけている

 2番目の問題は、「責任を不登校の子どもにおしつけている」。
 学校そのものが能力で子どもたちを決めつけていくところです。学校の中での、できる/できないというパッケージ化された能力で見ていく。それは学校がその子をはじき出すということなのですが、子どもをはじき出す構造は見ないで、その子の問題だということにされます。その子が心理的に困難な状況に陥っているからその子をケアする、救済や支援をするということになります。

学校の改善につながらない法案

 3番目の問題は「学校の改善につながらない法案」。
 基本理念には「安心して教育を受けられるように学校における環境の確保が図られるように」と書いてあります。でも、サラッと書いてあるだけです。

 いかに今の学校で安心して教育を受けられていないか、いかにブラックになっているかという認識が甘い。子どものきびしい状況はもちろんですが、教職員も年間多くが自殺をしています。そんな国は他にはありません。

 2007年に特別支援教育を推進するために学校教育法が改正されて、同時に全国学力テストが始まります。私は、それは一つの分岐点だったとみています。その後、2010年に学習指導要領の中味がどっと増える。ゆとり世代はとんでもない、もっと学習させなくちゃという風潮が高まったのです。

 学校が非常にきつくなっていくなかで、先生方は子どもの話を聞くゆとりを奪われました。いまでは、多忙でなくなったとしても、もしかしたら先生たちは子どもたちの話を聞けなくなっているかもしれません。「無言清掃」といった活動も年々広がってきています。時間がないから15分20分の昼休みに一切口をきかないで掃除をしなさいという。学校は指導中心、規律中心が著しいことになっています。

 子どもたちがお互いに「暮らす場」ではなくなっている。だから、息苦しくなるのは当然で、学校に行っている子たちもひたすら何も感じないようにして学校に行っています。

 すべての子どもたちにとっての「暮らす場」としての学校が、もう少しマシにならない限り、さらに不登校の子どもは増えるでしょう。

 フリースクールの方たちは本当に志が高く、いい仕事をしてこられました。心ある真面目な人たちです。何とか子どもたちを救いたいと思われる訳ですけれども、でも、もっとしたたかに社会の状況や時代や歴史認識を持ってみた時には、その志は残念ながらいろんなところから打ち砕かれてしまう。うまく利用されてしまうような状況だということを申し上げないといけません。

 第七条に基本指針があります。そこには基本理念にあった「安心して教育を受けられる学校」といった文言が抜けています。学校の問題ではなく、子どもの教育の問題、個人モデルの話になっています。これはちょっとあざとい。学校改善はものすごく大事なテーマなのに、そうとう甘く薄く考えられていると思えます。

教育過剰がますます子どもを追いつめる

 4番目は、教育過剰です。日本はほんとうに教育が過剰になっていて、何か不備があると、学校で教育しようということになるんですね。ちょっと前だと同和教育、人権教育、食育、キャリア教育、環境教育……どんどん学校にのっかってきて、もしかしたら学校は1時間目から10時間目まで勉強しなければいけないのではないかというぐらい。

 ある県の教育委員会から、「インフルエンザで学級閉鎖になったクラスがあるから、お正月の三が日に学校を開けようと思う」という相談がありました。「それは無いでしょう!」とお話ししたことを覚えています。それぐらい世界から見たら異常な国になっているという認識を共有しておきたいと思います。

 そして、法案の目的が「教育機会の確保」だけです。子どもは教育だけで生きていないし、定義のない教育は恐ろしい。今の意識の壁がある時に、教育や学習は点数学力に絡めとられます。教育という言葉は魔物なので、どんなふうにでも姿を変える。

 フリースクールなどに繋がっていない自宅で過ごす9割以上の子どもたちは、学習よりも生き延びたい。とにかくゆっくり緊張しないで過ごしたい。24時間緊張して、家の中でも緊張が抜けない、夜も寝ることができないという子どもたちが、第九条にみられるように、日常の生活状況を先生や心理、福祉の専門家の人たちに継続的に把握されることになったら…。どれくらい子どもの緊張を高めて追いつめるかということがわかっていないのでしょう。

 「教育水準に維持向上」(第三条四)や「状況に応じた適切な学習活動」(第十三条)という文言も入っています。これでは、自由な学習活動は認められないでしょう。文科省はそう思ってなくても、県教委、市教委に行くほど、右を見て左を見て他の市があまり大っぴらな大胆な自由なことをやっていなかったら、残念ながら横並びの状況になってしまう。

 それでは、子どもは学ぶ姿を見せないといけない。強迫的に追いつめられた時に、やっぱり私は、子どもの命が心配になります。

社会全体が学校で覆われる恐さ

 イヴァン・イリッチは社会全体が学校化することを恐れて『脱学校論』を書きました。脱学校論とは、学校から抜けるという意味ではなくて、社会全体が学校化するというのは本当に大変なんだよということを指摘した本です。

 この法案が法律になってしまったら、退避する場が無くなり、閉塞する教育システムで全体が覆われる。救済のための法律どころか、全体が学校で覆われる法律になってしまう。

 最後に私の師匠の一人、近代公教育論の大家である岡村達雄さんの言葉を紹介します。彼は「近代学校は差別学校としての性格を持っている、点数で能力を測っていく」、それがすでに差別化だという言い方をしています。

 また「国家だけでなく、分けることを支える私たち大衆の意識がある。」人々を分けていくという意識が、私たちには、確かにあります。能力を支えているメンタリティーは私たちの中に育てられている。私たちの意識と同時に「それに依拠する国家の価値観を撃たないといけない。」そのためには養護学校義務化の時の言葉がそのままいまの状況に使えるのではないか。
 「あえて義務教育を完成させる必要は少しもない。むしろ『未完成のままであるのがよい』と言い切れる思想性を表現することにあった。」
 全て制度の中に取り込む必要はない。たとえば、法律を作らなくても、実際に予算提案を政権党がすれば、フリースクールのようなよい働きをしている場所をサポートすることはできるわけです。

 最後に一番最初の話に戻ります。
イスラムやテロ、それは遠い国の話では済まない、人々が分断されて自分たちが構造的暴力を内面化していくような状況にしてはいけない。

 自分と違う人、多種多様な人たちが一緒の場で育つ、生きあうということが、実は質の高い学校であり、地域である。そう考えた時に、私はやっぱりこの法案が心配になります。


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