ますます不登校の子どもが追いつめられる!?

9・9「多様な教育機会確保法案」緊急大検討会

イベント当日の動画がアップされました。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/channel/UCoc0g1ORdRshBg5qpS6FFpA

追加:石川憲彦さんからの補足説明と添付資料資料、さらに当日会場で配られた資料をアップしました。


2015.9.9 多様な教育機会確保法案 緊急大検討会①

2015.9.9 多様な教育機会確保法案 緊急大検討会②



2015.9.9 多様な教育機会確保法案 緊急大検討会③

2015.9.9 多様な教育機会確保法案 緊急大検討会④



石川憲彦補足メモ

  当日は、わかりにくく雑駁な話をしてしまいました。また、少々乱暴な発言もしました。言い訳になりますが、時間の関係で、話題提供では3点用意した論点の1点だけ話し、質疑応答ではそこで話さなかった点までも含んで話そうとしたことが原因です。そこで、少しだけ補足と修正を加えさせてください。

  まず、3つの論点の内、第1番目は安倍総理(以下、総理)が東京シューレを訪問したねらいについてで、当日お話した通りです。つまり、彼の2大政策に沿って、①経済政策としてアベノミクス・右翼政治家として国家中心主義などが求める人材養成のための教育再編の末端事業の一部・・・つまり学校に行かない者の 中からの優秀な人材の選別、②安全保障関連法案の遠隔関連法案の一つで、ネット社会の治安・防衛上、現状では情報漏れを起こしかねない危険人物をリアルの世界で把握する一環としての教育管理・・・つまり銃後の憂い解決法案。

 

義務教育の民営化という問題

 ここからは話さなかった2論点です。

 その1つは、総理同様「なぜ、下村文部科学大臣(以下、文相)も、たまりば(神奈川県川崎市にある公設民営のフリースペース)に行ったのか?」と問うことから始まります。総理とはちがう理由がありそうだからです。それはシャバでの噂通り、塾産業の権益(利潤)拡大のためというもので、私は当たっていると思います。今回の教育改革提言の主体は、Privatizationつまり民営化です。これは、公教育の行き詰まりを民間活力導入で補うという言い方で正当化されますが、それは嘘。断定的すぎるかもしれませんが、公教育をきちんと支援もコントロールもできなくなった政府が、経費削減と責任回避のために導入する苦肉の策だと思います。

そもそも、限界に達した近代公教育は、世界的に見て、思い切った転換を行わない限り「死に体」になっていると言っていいでしょう。この点の説明には、有史以来教育がどのように人類史上変化し、とりわけ近代の学校が近代国家の産業・軍事・治安要請からどのように義務化されていったのかという経過を丹念にお話し する必要があるのですが、そこははしょります。第3次産業中心の、実体を生産しない社会では、ものづくりを中心に発展した近代社会の教育が、もはや通用しなくなったのです。にもかかわらず、グローバライゼーションの影響をきちんと吸収できる産業構造をどう切り開いていくのか、その方向性も見えていない。そのような中、教育も方向性を完全に見失っています。

この点で、日本の教育は、とりわけ大きく立ち遅れています。その好例が、10年前の大学教育改革が、完全に周回遅れの過去の遺物になってしまったところに現れています。もちろん、ではアメリカのような現代型教育がいいのかと言うと、私の答えはNoですが、ここも今回は割愛。更には、では、今後日本の教育はどうすればよいのかという提言も割愛して、ここでは今回の法案に絞ります。

要は、この教育の混迷とアベノミクスによる場当たり的産業育成政策につけこんで、利潤を挙げようと狙っているのが、新興の塾産業という「非実体生産的情報産業」です。すでに高等学校卒業程度認定などをただただ獲得するためだけの塾は、かつてのフリースクールの何倍もの子どもたちをマーケットに捉えています。これを義務制にまで拡大し、更には、義務教育全般を民営化で補おうという市場拡大とその争奪戦が、加熱しています。もちろ ん、こんな狙いに、のんびりおっとりしたフリースクールや古いタイプの塾が、太刀打ちできるわけがありません。

具体的な予測を書きましょう。今回の法案が通れば、次に来るのはフリースクールを細かく評価する基準をつくり、その中身によって助成金を変額する。この条件を、外的基準で判断しようとするなら、大手塾産業なら予算獲得のために中小とは桁違いの資本をつぎ込むでしょう。例えば、IT教育の充実度で、フリースクールや塾を評価して、これらをランク分けし予算額を決めるなんてことは、実に簡単に起こりそうです。

実際、ITで教育して時々子どもと会うというような安易な方法は、実はひきこもっている子にはニーズが高いし、今後の企業では自宅営業社員が増加することを考えると、政府にも、当事者にもメリットはたくさんあるとされるでしょう。ただし、これでは、最も大切な人間関係は喪失し、人間を育てるポリシーも欠如する。つまり、フリースクールのフリーは「自由」ではなくなり、カロリー・フリーと同じフリー (「・・・のない」という意味)になるという訳です。フリーダム・フリースクールとか、リバティー・フリースクール、ポリシー・フリースクールになってし まう。

  本当に自由がなくなるの? と疑問を抱く方には、まず、今のフリースクールならこんな教育も可能なのに、法案が通れば絶対無理になるとわかる、極端な典型例を紹介しましょう。例えば、「イスラム過激派支援フリースクール」「カルト宗教応援フリースクール」は公認されるか? これらがブラックギャグと思われる方のための例として、「レジスタンス教育スクール」と名乗り、第二次世界大戦以後の世界形成に貢献した「平和を乱す国内外の政治権力への抵抗」思想を教育しようとしたら、文部科学省がそれをどう判断するでしょうか。

こ のように書くのは、思いつきではありません。過去の歴史を総括してのことです。オルタナティブ教育(公教育外教育のフリースクールやホームエジュケーショ ンなどと類似する自由な民間教育)の代表例として、欧米にはいくつかの原型を求めることが可能です。①古き良き時代のイギリスのイートン校のような、慈善的貧民救済スクール②フランスからイタリアにかけてのCEMEAのような反ファシズム・レジスタンス・スクール③アメリカの1980年代あたりの人種差別を覆い隠すために白人富裕層が設立した私立スクール④イギリスのサマーヒルのような自由教育。ざっとこの4つ の例だけでも、これらが権力との関係でどのような歴史を辿ったかを眺めるなら、上記の私の例示がそれほどおかしなものではないとわかっていただけるでしょう。ただ、この点の詳細も、長くなるので割愛。各自、勉強してみてください。結論だけ言うと、権力と対置した部分を明確にして、力関係を熟慮した上で財政的基盤について考えるということをしないまま、安易に政治権力から支援など受けると、権力によって教育姿勢は容易に変形され、理念は完全変質するのです。

つまり、金の問題以上に、教育としては重要な事柄があるのです。

もちろん、政府から支援があっていけないというのではありません。それは、支援の内容と、市民の保有する力関係次第です。しかし、現在の法案は、どう読み替えてみても、方向性も力関係も、フリースクールの近未来の死を預言する以外のものではありえないというのが私の結論です。

余談ですが、実を言うと、私は、フリースクールという発想はもともと胡散臭いと批判し、あらゆる人間のためのフリースペースをこそ形成したいと考えてきた人間です。

今のフリースクールの多くが変質してもしなくても、たいしたことではないと考えています。ただ、いくつかの夜間学校(夜間中学)や、一部のフリースクール・ スペースを含む民間教育が創造してきた上質な教育の部分までもが、これによって淘汰・吸収されることは心配します。今回の質疑で、一部の参加者の発言を聞き、既に少しは質がいいのかなと思っていたフリースクールの一部には、無批判に利権産業化しようとしているところや、そのことに無自覚のまま自らを安売りしているところがあることには驚かされまし た。これまで築いてきたと自負していたフリースクールの教育的意味と内容の質の高さに、そこまで自信を持っていないという実体が見事に浮き彫りにされた質 問でした。それにちょっとあきれてしまい、これらの質疑への私の応答が雑になってしまいました。

 

「新たな公共」とは何か、考えあうとき

さて、話せなかった2番目の論点。それは、では、どのような支援ならいいと、私が考えているのかについてです。

先ず触れておきたいのは、質疑の中では一人一億円出すというのなら考えてもいいといった乱暴な一言で片づけた点についてです。この発言の前提として、上記のオルタナティブ教育③の例が頭にありました。高級住宅地で、黒人が公立学校へ入学するのを嫌がったリッチな白人が白人専用のリッチな私立学校を設立する。 自由な教育内容を用いて公教育に代賛しうるという発想を、最もラディカルに悪用した例です。今の日本でも、公教育を回避して海外でエリート教育を学ばせる 金持ちはいます。そのような傾向が、この法案によって、国内でさらに大きく「自由な」可能性を開くになるでしょう。

一 方で、公教育から疎外される貧民層には、交通費程度の支給を行うことで、教育責任を放棄して管理義務だけを押し付ける。この狭間で、大多数は、リッチにはなれないが、切り捨てられるのもいやと、公教育にしがみついて自己管理を強める。これまでは、この「しがみつき」メカニズムを回転させてきた大学入試制度 と偏差値による子ども管理も、中産階級主体の工業社会でこそ通用したものの、今では過去の遺物として通用しなくなりました。この情報産業化社会で、学歴と偏差値の代賛を行うのが、もろに金の額で差別化を図る金権による階層の再分割です。

子どもの教育に、金持ちなら一人一億円くらいは簡単にかけられる。公教育なら国や地方合わせて多分一人当たり300-500万円くらいは出ているだろう。では、学校にかない場合は・・・と、こんな風に金銭で計算すること自体が、教育の敗北なのですが・・・一応、そういう計算に立つなら、という前提で話をしま す。

本来公教育とは、全ての人に開かれるべき義務を国家に負わせるもの。とすれば、国家が、子どものニーズに応じられなくなり、子どもを学校に来られなくした責 任を負って当然。国家責任を果たせないことに対し、慰謝料を含め一人数千万円くらいは権力から金権を与えられて当然。それも、今回の法案で、金持ちならかけられる程度には金をかけてもいいくらいの話になるなら、不満はあっても限定つき容認くらいしてもいいかもしれない。

もちろん、問題は、そういった計算にあるのではありません。この法案によって放棄される公教育とは何か。それらを放棄しても、なお守られようとする公教育システムとは何か。本当に問われるべきは、それらの内容です。私が集会で「新たな公共とは何か」という問いを投げかけたのは、この点と絡みます。これまでの 公教育を担ってきた公(文部科学省的)ではなく、社会の変容に伴う新たな共生を可能にする公のありよう、つまり新たな公共の創造こそが問われているのです。

私は、障碍児者の生活に関与する仕事の中で、支援は固定的分別支援(診断による一律に定められた支援)でなく、状況支援こそ重要と考えてきました。人間は、障碍があろうとなかろうと、困難な時には支援が必要だし、楽な時には支援する余裕を持てます。だから一時一時変動する一人ひとりが置かれた状況に応じて、 お互いに支え合っていけるような体制を整備していくことこそ重要なのです。一方、今の法律の定めるような分類による処遇では、現実生活のニーズから遠く離れた過不足の多い支援しか行えないのが実状です。

抽象的になりすぎたので、これをイメージ化するヒントとして、2例書きます。1970年代から80年代、障害者自立支援運動は、カリフォルニアなどの一部で、障害者が自分でこの人の介助を受けたいと推薦した人たちを、地方自治体は公務員として採用し、届け出者の介護を全面支援しました。スウェーデンでは、 数人の人が集まれば、それは行政(国家も含む)への正式交渉団体となれるというシステムを利用して、生活の場で必要な支援を考える運動が活発でした。

不登校問題も、貧困と障碍が中心課題として浮かんできた今こそ、制度的に固定化され、階層分断を強化する可能性が高い「はした金」支援にしがみつくことなく、根本的な社会の変動に対応できる柔軟な状況支援策をどう確立していくか、真正面からの検討を行うべく大幅に舵を切る時です。今回の法案にこだわる背景 には、過去には主として裕福な階層の不登校を支援してきたこれまでのフリースクールが、時代と共に貧困層や発達障害を中心とする障碍者に関与せざるを得なくなった状況があります。

これらのフリースクールに通いたくても通えない子どもをどうするのか? 1990年代に私がフリースクールに提起した問題が、ようやくフリースクール関係者の視野に入ってきたことは、一応評価できます。しかし、せっかくその問題意識を持ったのなら、基本的な貧困問題への関与のないまま、小手先の資金援助でこの問題を何とかしようなどと考えず、もっと基本的に考え直す必要があります。小手先の支援が、貧困問題の本質を、かえって悪化させるという視点をきちんと 持たないところに、フリースクールらしい甘さがあります。これを機会に、貧困問題同様、障碍者差別問題とも距離を置いて考えられる傾向のあった「不登校問題」が、閉鎖された少数派の枠を超えて、障害者や貧困者など社会的差別を受ける人々と、開かれた多数派の共生の問題として語られていけるといいのですが。

 

 

以上、集会の後大急ぎで作成したので、まとまりに欠く乱文ですが、集会で話せなかった内容の補足とします。これまで見てきたように、過去の遺物ともいえる、 現在の物取り主義要求は、結果として公的扶助によって管理制約され、ユーザーにとってあまりにも失うものが多いまま、最終的に現在進行中の金権・利権・軍 事大国化への大政翼賛構造を補強するだけに終わるでしょう。

世界的に民族主義が高まり、グローバルな市場争奪が進行する中、現実的に戦争やテロの危険が高まっており、その対策が緊急の課題であるという主張には説得力 があります。しかし、だからこそ、わたしたちが基本的にどの位置に立つのか、対策の方向性を決定づける基本姿勢が何より問われています。しかし、政府は、 基本的論争をぼかしながら、徐々に細部の周辺法案を固めることによって、気が付かないうちに身動きが不自由になるような縛りをかけようとしています。この法案もまた、自衛という言葉が何を意味するのか不明のままに進行する戦争法案同様、教育とは何かという基本問題を不問に付してじわじわ子どもを締め付けます。

 

このことへの問題提起の意味を込めて、集会では不用意とも思える乱暴さで「アスペルガーです」と口にしました。この発言が波紋を呼び批判を受けることは覚悟の上、というよりそれをむしろ歓迎しての確信犯的発言です。ただ、当日はその真意をお話しできませんでしたが、既に『精神医療』(2015.7月号/批評社)という雑誌に発表してあります。そのため、ここでは補足しませんが、読んでいただければ幸いです。

 

2015年9月16日  石川憲彦(精神科医)


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多様な教育機会確保法案について【石井小夜子】.pdf
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9・9大検討会用資料(内田良子).pdf
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伊藤書佳メモ.pdf
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